■こけしの謎を解く
こけし

11月中旬、東北の空は季節の変わり目で荒れ模様でした。羽田に戻るかもしれない前提で飛ぶという航空機をキャンセルし、新幹線に切り替えました。ホッと一息ついて車窓からの景色に目をやると、東京ではまだまばらだった黄葉が、「はやぶさ」の速度と共にぐんぐん鮮やかな色をまして広がって行きます。日本最長の鉄道路線は東京からわずか3時間足らずで私を終点、新青森駅へと運んでくれました。ここからはレンタカーで縄文時代の代表的遺跡、三内丸山遺跡と木造町にあるやはり縄文後期から晩期の亀ヶ岡遺跡に向かいました。



三内丸山遺跡についての案内掲示
三内丸山遺跡についての案内掲示

 

今回から12回の予定で連載させていただく私の「東北こけし紀行」はまずここから始まります。ところで、なぜ今、こけしなのか?木を轆轤(ろくろ)にかけて轢(ひ)いて作る東北独自の玩具とされるこけし。描かれる姿は、女の子ばかりです。単なる子供の玩具に止まらない深みを「こけし」に感じるのは私ばかりではないようです。実際にこけしのコレクターは大勢います。かわいさと共に「こけし」が放つ不思議な魔性、魅力のせいだと思わずにはいられません。



こけし

       

私がこけしに興味を抱くようになったのは、今から24年ほど前のことです。骨董のプロをめざして修業していた骨董市で、控えめに彩色された、泥臭くも美しい津軽系のこけしを見つけた時からです。愛らしい丸い頭と省略された円筒状の胴体から成るこの素朴な木製品は何か安らぎを感じさせてくれると同時に哀愁と孤独感を漂わせています。当時私は民間仏に興味を持ち収集していましたが、その延長に「こけし」が出現したのです。その時から私は少しずつ集め始めました。以来、愛すべきこけしがかなりの数になり、それらをながめているうちにおぼろげながら「こけし」という言葉のなりたち、「こけし」の目的、いつできたのか、用途は何か、そうした本質に迫る何かが見え始めたように思えるのです。



こけし
物故作家のこけしたち・筆者所蔵の一部

 

そこで今回の旅を思い立ち、こけしのふるさと、東北を歩いてみることにしたのです。いわゆる「伝統こけし」は東北六県、地図上でいえば、福島県猪苗代湖の少し下に東西に線を引いた北側の六県、すなわち福島県、山形県、宮城県、秋田県、岩手県、青森県にしかないという不思議さをともなうのです。それはなぜなのか、私が調べた範囲では、「伝統こけし」を扱うどの案内書にも出版物、学術書にも決定打といえる答えはありません。底辺に生きる庶民の生活の中に成立した「こけし」についての古文書などは求め得るべきもありません。そうした場合は残された「こけし」を検証すること、またはそれらこけしたちが生まれた場所に行き、調べてみるしかありません。少しでも日本文化の新たなる源流の一つにめぐりあいたいという今まで私が古今東西の古美術・骨董に携わってきた想いと同様のものを感じたのです。



高床式掘立柱建物跡
高床式掘立柱建物跡

 

三内丸山遺跡は青森市から車で10分ほど離れた30〜40メートルほどの小高い丘の上にあります。その存在は江戸時代から知られ、様々な調査が行われてきましたが、平成4年から始まった調査で日本最大級の縄文集落跡と共に数々の宗教的とも思える遺物を初め、様々な生活関連重要遺物が発掘されたのです。続いて、直径1メートルもある栗の木でできた縄文中期の大型掘立柱建物も発見され、ここに県営球場を建設する予定は中止となり、国の重要な遺跡として永久保存するために埋め戻されました。縄文時代、南極北極の氷が温暖化のため解けてせり上がり、遺跡のすぐそばまで海が迫っていたようです。青森市のある平野地は当時海の底だったのです。これを縄文海進といいます。この時代の青森の平均温度は今より2度高く、現在の静岡あたりの平均温度に近かったようです。温暖で栗やどんぐりも主食にするほど採れ、山には動物も多く、川には魚が沢山泳ぎ、間近の海にはクジラやマグロなどの大型回遊魚も泳ぎ、海辺には貝類などの食料も豊富で大変暮らしやすかったようです。



大型掘立柱建物跡復元と大型竪穴住居復元
大型掘立柱建物跡復元(手前)と大型竪穴住居復元

大型掘立柱建物跡復元と大型竪穴住居復元
大型竪穴建物の柱跡。深さ2メートル、柱の直径1メートルという巨大な柱

 

今回はそうした縄文遺物の中でもとりわけ土偶という特殊な人形(ひとがた)を生んだ縄文の世界をこの目で確認すること、さらに世界最古とされる国産漆製品がどのように作られていたかを東北の歴史の中に見てみたかったのです。縄文時代は土器が最も有名ですし、津軽半島の北にある大平(おおだい)山元T遺跡で出土した無文土器が放射性炭素C14の年代測定の結果、今から16500年前という古さを示し、津軽半島の土器は北にゆくほど世界最古を更新し続けています。さらには木の器や櫛、簪(かんざし)が出土し、それらに漆が塗られていたのです。土器に漆が塗られたものも発見されています。当然のことながら木碗には漆が塗られ、これも世界最古クラスとされています。



土偶の一部
土偶の一部

資料館展示の縄文土器群

資料館展示の縄文土器群
 

□漆は常に木の文化、木地師(きじし)という轆轤(ろくろ)技能者と共に歩んできた歴史があります。碗や盆などを制作するには、回転する「轆轤」が必要ですが、轆轤はエジプトやメソポタミアでは紀元前6000年から4000年あたりに発明されたようです。轆轤は陶器の大量制作にも欠かせないものであり、日本には古墳時代に朝鮮半島からもたらされたとされていますが、私の考えでは弥生時代後期には簡単な回転台はあったと思います。その回転台を横にして、軸に縄を巻いて交互に引けば「木工轆轤(旋盤の始まりのような)」ができます。問題は削るための刃です。当時、石器や黒曜石などで木をえぐって作られた木碗もあったでしょうが、轆轤で削るためには石器や黒曜石では難しそうです。青銅や鉄のバイト、すなわち金属刃先が必要だと思います。青銅でも可能ですがやはり鉄が望ましいでしょう。

□製鉄技術はご存じのように、現在のトルコ北部のヒッタイトで発明されてきましたが、最近の研究では紀元前25世紀ころにアナトリアで作られたと考えられています。メソポタミアでは紀元前3300年から3000年ころのウルク遺跡から鉄片が発見されています。その後トルコ北部のヒッタイトが武器として使用して世界に広がりました。目的に合う形に整えた高温の鉄を急冷させ研ぐと最高の刃が生産されます。紀元前18世紀ころにはすでに製鉄技術があり、後にヒッタイトではさらに進化させそれを武器に使いました。エジプトの最盛期のファラオ、ラムセス2世と戦ったカデッシュの戦いで使用されたことは有名です。

□その鉄を刃(鉋、バイト)に使った轆轤で制作したのが奈良時代後期の「百万塔」です。当時、鉄は最高に貴重な金属であり、刀剣、武具以外には使われないほどでした。ですから製鉄技術は最先端技術であり、渡来系の技術者集団にしかできない技術でした。「百万塔」は称徳天皇(父は聖武天皇、母は藤原氏出身光明皇后)によって770年に作られた木製の三重塔の総称で、総高21.4センチを基準に100万基作られ、奈良の法隆寺を初めとした十大寺に、恵美の押勝の乱のあと護国鎮護祈願のために収められたものです。100万基をわずか6年で、しかも現在までの時代による木の収縮を入れてもわずか数ミリの誤差の精度で規格化して作ったことから当時の最先端技術者集団である近江木地師の存在が知れるようになったといわれます。現在は法隆寺に26054基が残されており、その他の多くは火災などで消失し、ごく一部が民間にも流れて古美術品として数寄者の間で珍重されています。


本物の百万塔梅木修一工人の作った現代の百万塔
左が本物の百万塔と右が梅木修一工人の作った現代の百万塔

近江木地師の歴史

 

□後のこけし作りにかかわる木地師の歴史のルーツともいえる近江木地師の歴史は、一説では惟喬親王伝説に始まるといわれます。惟喬(これたか)親王(844〜97)は55代文徳天皇の第1子でしたが、母の身分が低かったため藤原氏出身の皇后が生んだ第4子が皇位を継ぐという悲劇に遭われ、出家遁世し長く流寓の身となられたといいます。当時は藤原氏が権力をつかむ過程にあり、惟喬親王は都から遥かに離れた近江小椋谷の地を賜り、そこに身を隠されたといわれます。木地師に小椋姓が多いのもこれに由来する(秋田県木地山に小椋久太郎さんという有名なこけし職人がいた)とされますが、しかし先ほどの百万塔の制作は惟喬親王伝説より古いため、あくまでもこれは伝説です。しかし百万塔制作後はたいした仕事もなく、轆轤、製鉄、鍛冶といった最先端技術を持ったプライド高き木地師の集団は生活のため離散を余儀なくされると共に、山深くに木を求めざるを得ない孤独な状況に追い込まれ、横暴を極めていく藤原氏を中心とした政治に対する反感も深く木地師の心の奥底に埋火のように受け継がれていき、惟喬親王の悲劇と結びついたと考えられます。

□現在のこけし職人の家に菊の御紋入りの木の伐採許可証なるものが伝来することが多いのですが、これなども惟喬親王伝説の名残であり、木地師の心のよりどころだったのでしょう。

□もともと日本には多くの木々が繁殖し、有名な白神山地のような、落葉広葉樹林帯を成して、縄文文化の基盤を作りだしてきたのです。漆と木地、碗の歴史は、当然のことながら木を求めて山深い奥地に入り込んでゆきます。しかし、その孤高の背景には今まで述べた政治権力に対する反感が惟喬親王の伝説などと共に伝えられ、長い歴史をかいくぐりながら誇り高き木地師という特殊技能集団を成立させてきたともいえるのです。彼らのジレンマは、山深き場所でしか作られぬ碗、盆類はそこでは売りにくいということです。山奥から人々の住む場所、里、まち、都におりて来なければ売れません。そこが彼らにとって一番大きな悩みであったに違いありません。それを解決したのが「温泉」だったのです。


現代の木地師
現代の木地師:轆轤を挽く昨年5月に内閣総理大臣賞受賞の阿保六知秀工人