■こけしの謎を解く 1
描彩する阿保六知秀工人
描彩する阿保六知秀工人

完成しつつある阿保工人の「子どもたち」
完成しつつある阿保工人の「子どもたち」

この冬、青森に初雪が舞ったのは、例年より数週間遅い昨年11月10日でした。前日に到着してレンタカーで取材先を廻っていた私は、東京では使ったことの無かったスタッドレス・タイヤの威力を知ることとなりました。雪は深々と降り続け、翌朝には平野地で35センチ、酸ヶ湯温泉では新田次郎の「八甲田山死の彷徨」で有名な豪雪地帯に近いだけあってなんと75センチも積もりました。東京からノーマル・タイヤで運転して来て坂道で立ち往生している方も目にしましたが、私はスタッドレス・タイヤのお蔭で雪をほとんど意識せずに移動できました。あっという間に深い雪に閉ざされてしまう東北の冬を実感できたことは、本稿を書く上で大変貴重な経験となりました。


初雪とは思えない車から見た雪景色
初雪とは思えない車から見た雪景色

温泉の窓からふるさとの初雪を見る津軽のこけしたち
温泉の窓からふるさとの初雪を見る津軽のこけしたち

□東京では紅葉の始まりである季節に、青森では雪が降る。初雪からそのまま本格的な冬に突入するようです。農家では刈り入れ時までに多くの困難と不安、心配が重なります。気を緩めることのできない自然現象は台風、異常気象、火山噴火に地震、津波、台風、大雨、干ばつなど、キリがありません。これら天災をまぬがれてめでたく収穫を済ませても、厳しい年貢の取り立てが待ち受けています。それを何とかしのいだら、すぐに容赦なく冬が押し寄せる。今回の青森での初雪の体験により、そのことを肌で感じることができました。

□温泉は、雪国の農民たちが来年の過酷な労働に耐えられるよう疲労した体を回復させるのに欠かせない場所でした。「骨休め」とは良い言葉です。山間の簡素な宿で自炊しながら疲れ切った体を温泉でほぐして身も心もリフレッシュする。湯治の効能をここで述べるつもりはありませんが、他国より厳しい気候条件での過酷な生活を強いられるみちのく東北の農民たちは、こうして毎年温泉で保養することにより、命と労働力を繋いできたのです。


山間の温泉1

山間の温泉2

□「温泉」が都市に住む庶民の娯楽になるのは江戸時代中期以後です。鳥居清長の「箱根七湯名所」(1781年・天明元年)めぐり、歌川広重の「箱根湯治の図」(天保3〜12年)などの浮世絵が続々出版されたのがその始まりです。徳川幕府の御膝元の江戸では古来「入り鉄砲と出女」には注意しろ、と関所役人は上から厳重注意されていたので、庶民が江戸を出ることは厳しく制限されていました。「入り鉄砲」とは、江戸で騒乱や反乱が起きないように、鉄砲の持ち込みに対する警戒を怠るな、ということ。「出女」とは、1615年・元和元年にできた「参勤交代制度」により大名の正妻と跡取り息子は江戸の屋敷に置かせ、このいわば人質に逃げられないように、関所を出ようとする女(奥方)にはくれぐれも注意せよ、という御触れの事です。しかし、人の流れが経済と密接に繋がることに気付いた幕府は次第に統制を緩めて行きます。

□更に浮世絵師たち、すなわち葛飾北斎が「富嶽三十六景」(1831年・天保2年)、広重が「東海道五十三次」(1833年・天保3年)などを発刊する世相では、庶民の間に旅行気分が一挙に高まりました。それを益々強めたのは、昔からのお伊勢参りでした。伊勢参りは宗教行事として認められてきたので、それに付随した宿場町と寄り道的な東海道の名所の観光案内書として発行したのが「東海道五十三次」だったのです。お伊勢参りの名目で遊興を楽しむような風潮が増えてきた、ということです。次第に各地の温泉が庶民の楽しみに格上げされ、大都市江戸では手近な箱根あたりが恰好の観光地になりました。

鳥居清長の「箱根七湯めぐり」の浮世絵
鳥居清長の「箱根七湯めぐり」の浮世絵

葛飾北斎の「富嶽三十六景・赤富士」
葛飾北斎の「富嶽三十六景・赤富士」

□一方、江戸と遠く離れた東北の農民たちは、苛烈な気候風土の中で独自の温泉文化を築きつつありました。そこに便乗したのが木地師たちでした。

□近江の木地師たちは奈良時代の「百万塔」製作以来、組織立った大きな仕事がありませんでした。この苦境に追い打ちをかけたのが、大化の薄葬令(646年)以後急速に勢いを増した「やきもの」の発展です。古墳時代の副葬品としての須恵器というやきものが、急速に古墳が小型化する中で行き場を失い、生き残りの道として一般生活の場へと進出してきたのです。特に文化の中心をなす西日本では、中世以降それら土器や陶器(釉薬のかかったやきものを陶器という)の普及が木地師を経済的にも困窮させました。木を材料に用いるので、元々山に入る仕事ではありましたが、追いやられるように奥へ奥へと山深くに移り住みました。神の技ともいうべき鉄を鍛えて轆轤挽きの刃(バイト)から作る木地師の文化は、惟喬親王伝説の菊の紋章を拠り所として孤高にして誇り高き山の文化となったのです。

故・奥瀬鉄則工人の手作りの鉋(轆轤の刃・バイト)の数々
故・奥瀬鉄則工人の手作りの鉋(轆轤の刃・バイト)の数々

□「須恵器」から「猿投」を経ることで急速に進化した日本のやきものは、「常滑」に代表される六古窯の大発展とそれに基づく農業経済の発展を促します。大都市に人が集中した中世は、食糧の安定供給が大きな課題でもあり、伝染病の原因ともなる都市の糞尿対策も重要課題でした。それを解決したのが平安時代以降の肥料革命といえる糞尿による農業です。これは一毛作から肥(糞尿)による多毛作への転換でした。糞尿が肥料になれば、それを蓄えるのに大型壺を要します。それが全国の農民の必需品となったことで、やきものが一大発展を遂げます。農業の肥溜め壺とそれに関連した日常のやきものの普及が、中世の農業生産力を飛躍的に高めるという相乗効果でした。それが「常滑」を中心とした「信楽」「丹波」「越前」「備前」などのやきものの中世に於ける最大の功績です。

□日本の基幹産業は農業ですから、その発展は鎌倉、室町、桃山の各時代を支えました。更に江戸時代中期以降、西では唐津、伊万里磁器が、東では瀬戸の磁器が庶民の生活を支える多大なるやきもの文化を形成して行きます。そのやきもの文化発展の陰では、活躍の場を失った木地師たちがみちのく東北地方の背骨を形成する奥羽山脈の山懐に流れ込んで行ったと思われます。

□木椀制作を中心とした木地師の仕事は「やきもの」の発展に圧迫され、次第にやきものの影響が少なく、かつ原木のある山間へ、より遠く北へ北へと移動せざるを得なかったのです。山間僻地に入り込むほど販路はいよいよ閉ざされて行きます。山里から離れるにつれ輸送も難しくなり、販売量は減少します。そんな自然淘汰されつつあった木地師を救ったのが、温泉保養に来ていた農民です。山奥の温泉に長期滞在して骨休めする農民の手土産に木地師の製品はピッタリでした。入れ子椀(大きな椀に順次小さな椀が収まるもの)、皿、お盆など、軽くて嵩張らず、割れにくい木製品は、安価で恰好な土産物になったと考えられます。このようにして、山間奥地の温泉に木地師が住みつく状況が生まれたのです。

山峡の温泉の初雪
山峡の温泉の初雪

□さて、こけしとの関連で縄文土偶について新たに書いてみようと思っていたのですが、基礎知識については以前に本講座の連載「骨董をもう少し深く楽しみましょう」第8〜11回に掲載しておりますので、そちらを再度ご参照ください:↓
http://www.aichi-kyosai.or.jp/service/culture/internet/art/antique/antique_4/index.html

□歴史学者である梅原猛氏は、縄文土偶は出産で亡くなった母子の霊を弔い、死後の国へ魂を送り出すと共に、再生を期して作られた人形(ヒトガタ)ではないかという説を立てておられます。ここで弔いについても触れておきたいのですが、人間を動物と区別する所以、すなわち人間の定義として少なくとも以下の点が多くの歴史書において筆頭に挙げられています:

道具を使う
火を使う
言葉を話す
直立歩行をする

□果たしてこれだけでしょうか。「葬送をする」という事も重要であると私は考えます。例えば言葉なら、イルカでも鳥でも其々の言葉で話していることでしょう。しかし、葬送を行う動物は人間だけです。考古学的には、最古の「葬送」として10万年前のネアンデルタール人による埋葬跡が見つかっています。ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)は現生人類(ホモ・サピエンス)とは別種とされていますが、死者に花を手向けて埋葬した事例があることから、我々に大変近いと考えてよいでしょう。亡き人を悼み再生を望む。家族や近親者に愛情を感じ、その人たちの死後の世界への旅立ちに美しい花や副葬品を添えて送り出すのは、きわめて人間的で現代人に通じる行為です。縄文の土偶も同様に、愛する女性と子を失った人が、あの世での幸福と再生を期して副葬したものに違いありません。

国立博物館の土偶
国立博物館の土偶

亀ヶ岡遺跡出土の土偶"
亀ヶ岡遺跡出土の土偶

苦しそうな顔が印象的な三内丸山遺跡出土品
苦しそうな顔が印象的な三内丸山遺跡出土品

□もう一つ、人間らしいといえるものに「罪の意識」があります。キリスト教では人間は元々「原罪」という罪を背負っているとされます。生きる上で罪を犯さない人はいないとキリストはいいます。こうした罪はキリスト教でも浄土仏教でも天国や極楽への道の妨げになるとされる為、人がその罪を何かに置き換えて無くしたいと考えるのはごく自然の流れです。ですから、古来己の病やそれまでに犯した罪、穢れをヒトガタに背負わせたのでしょう。

人間の罪を背負って十字架にかけられたキリスト像(手は取れている)
人間の罪を背負って十字架にかけられたキリスト像(手は取れている)

□日本では都城など7〜8世紀の様々な遺跡から人形が発掘されており、これらは身代わりに用いられたと見なされています。また、源氏物語の「須磨」において贖罪の日々を過ごす光源氏は、人形(ヒトガタ)を流して身を清めています。呪詛の目的で作られた恐ろしいヒトガタもあります。「丑の刻参り」で知られるように、恨めしい人に見立てたヒトガタにくぎを打ちつけて呪い殺そうとする。古代から中世に於いては、そうした祓いや呪詛が本当に効果をもたらすと信じられていました。ですから729年の「長屋王の変」のように天皇家を呪詛したとして、ライバルの藤原氏によって自殺に追い込まれた事件もあったのです。人間の「闇」の部分にも関わる「ヒトガタ」の持つ恐ろしさがわかります。ヒトガタは己や他者の身代わり、分身であり、その分身に役割を負わせる、穢れを負わせる、罪を負わせて流すという清め、祓い、呪いといった大きな役割がありました。

□古代、中世に於いては現代の若い女性の常套句「カワイイ」だけで人形を愛するということはなかったのではないかと思います。むしろ、ヒトガタは恐ろしいもの、近付いてはいけないものとして認識される場合が多かったのではないでしょうか。